J2通算5000ゴール
アジエルキタ━(゚∀゚)━!!
なんかアウェイなのに前半2-0で折り返しとか調子いいじゃないですか奥さん♪
-追加-
5-1!!
素晴らしい!石原キレキレらしいじゃん☆悠介キレキレらしいじゃん☆
徳島戦以来の5得点。
また変なもの食ったかもしれない!ここから8連敗したら泣くぞ。
アジエルキタ━(゚∀゚)━!!
なんかアウェイなのに前半2-0で折り返しとか調子いいじゃないですか奥さん♪
-追加-
5-1!!
素晴らしい!石原キレキレらしいじゃん☆悠介キレキレらしいじゃん☆
徳島戦以来の5得点。
また変なもの食ったかもしれない!ここから8連敗したら泣くぞ。
茨城千葉埼玉東京徳島香川徳島兵庫大阪京都滋賀三重愛知岐阜長野山梨神奈川東京埼玉千葉茨城
ほとんどが通過でしたけど。
メンバー
・オレ
・滝井
宿泊
・フェリー
・桑ちゃん
・漫画喫茶
・まさる
ダイジェスト
・滝井が行きがてらにニンテンドーDSを購入。社会人のお金の出方は尊敬に値する。オレはGBAのソフトだけ買う。
・フェリー乗船前になぜか職質に遭う。全く身に覚えがないが動揺を隠しきれず。
・フェリーではひたすらメイドインワリオか英語漬けか読書か睡眠。ハウルを撮り忘れていたことにここで気がつく。
・初の四国島。日本は日本。
・西寄りで展開していると思われるトマト&オニオンというフラガのような店で昼食。
・徳島ではほとんどなにもせずに香川へ移動。
・立ち寄った健康ランドがすごかった。浴場内にプールまであった。人生で初めて全裸での水泳は力が入らないことを知る。
・高松、意外に栄えてた。
・桑原、とても黒かった。
・讃岐うどんが香川一おいしいお店に連れて行ってもらった。すっごくおいしかった。香川一ってことは世界一だと思う。
・橋の上からではうず潮みれず。淡路S.A.がやけに広くてすごかった。
・雨中での大阪の首都高はレベル高すぎ。
・大阪城雨降りすぎ。でも観にいってよかった。堀の広さとか、オレの知っている城のスケールとはだいぶ違った。
・宿泊地として四日市を目指す。
・途中、お気に入りのトマオニで夕食。まさか2回もお世話になるとは思わなかった。
・予定してた健康ランドがその日はオールナイト営業日ではなくしぶしぶ漫画喫茶へ。はじめの一歩、10冊読破。
・朝一でナガシマスパーランドへ。天気が悪かろうが遊びまくる。午前プール、午後遊園地、帰り際アウトレットモール。
・予想通りウォータースライダーも絶叫マシンも楽しかった。遊園地好きな人は絶対楽しめる。(一番の大物は諸事情で営業していなかったのは残念。)
・アウトレットでいろいろ衝動買い。服買ったの久しぶり。
・地味に疲れている中、5時間かけて松本へ。ここの運転が疲れピーク。高速越しから名古屋城を観る。大きかったと思う。
・途中、この旅2度目のトマオニを発見、立ち寄る。
・まさる、とても白かった。
・おぶ〜で風呂。近くの新しい居酒屋で飲む。ビアサーバーの調子が悪いみたく、焼酎をずっと頼むことに。
・で、軽い二日酔いの中、学校に用があるまさるを見送って帰る。
・松本城に立ち寄る。黒くてかっこいい。2年ぶりに観たけど結構この城好きかも。
・そば食って帰る。2時間ほどで府中に着く。
・スティーブンが常陽銀行でトラブってるらしく、電話が入る。こちとらプライベートな時間ってのもあるんじゃい。
・ウイイレやって服もらって解散。
・首都高渋滞。最後の最後萎える。
この旅で一番よかったのは三重県です。だいぶファンになりました。また行きたいと思いました。誰か三重の友達を紹介してください。
泊めてくれた桑ちゃん、まさる、ありがとう。特にまさる、ごちそうまでしてくれてありがとう。うどん置いといたから食べて。そのうちこっちにもおいで。
2002年(大1)
某私立大学に通うものと思われていたが、スポーツ選手で有名な某国立大(伏せる意味もないなw)のほうに受かっていたので急遽そっちへ。
サークルに悩むも、まずはサッカー同好会にいってみる。技術的には十分通用することに小田高サッカー部での3年間を有意義なものだったと振り返る。が、チームの方針やら体制やら様々な点に疑問が生じ、6月頃ちゃんと仁義を切った上で退団。意外とそのときの友人たちとはいまだに仲良くしている。ボールを挟んだ仲というのは素晴らしい。
5月24日、何を思ったか日置とアルペンまでチャリで爆走。代表Tシャツ(8 NAKATA)と1982年のフランス代表ユニ復刻版を購入する。後にも先にもチャリでアルペンはあの一回だけ。
6月は日韓大会。開幕戦はやどかり祭とかぶったため、オレの勝手な一存で早めに店閉めてテレビの前にスタンバイ。結果は知っての通り。
日本vsベルギーは体芸食堂パブリックビューイングで観戦。いい熱気だった。W杯でリードを奪うことの喜びは何事にも代え難かった。vsロシアは酒井ん家。vsチュニジアは6クラの誰かの宿舎部屋。vsトルコは三学キャッシュ特設会場。ソファー並べてたくさん人が入れるように準備に回る。
日本のテレビ局による韓国代表への扱いが気に食わなくなる。必要以上の応援か、全く不要な誤審の糾弾。このころからマスコミのサッカーの扱い方に神経質になる。
イルハンのインタビューに萌える。3決での洪明甫の大ミスに
萌える。
特にボールを蹴る場がなくなるも、スポデーの先輩に呼ばれてたまに虹の広場でサッカーをする。一度だけセネガルユニを着た10人くらいの留学生と国際親善試合を行う。ヤツらのヘディング、打点高杉。
後の69ersとなるチームに参加する。問題は技術よりもやる気と人間関係。清水も武末も太一も怖ぇんだもん。
いろいろなチームのサポーターと話す機会が多くなった。全国から学生が集まる大学ならでは。そういう人との会話はとても面白い。ベルマーレは大宮、甲府とともに熾烈な5、6、7位争い。結局6位でシーズン終了。あれ?大宮も甲府もいまやJ1じゃん(T_T)
2003年(大2)
69ersがしっかり発足するも、多忙によりあまり参加せず。
スポーツ・デーの後輩との会話にサッカーネタが役に立った。ただ、Jリーグネタよりも海外ネタのが多かった印象。時代の流れなのかねぇ。
ベルマーレ特有の5月病が響き、定位置でシーズン終了。
銀河系チームのせいで急速に海外サッカーの興味が失せる。失せた原因もマスコミのせいだと思う。ただ、アーセナルが無敗優勝。素晴らしい。
あれ、少なっ。この年あんまり何もなかったんだっけかね。あ、まだこのときBSを導入してなかったからだ。
1999年(高1)
少し迷ってサッカー部入部。迷った理由は覚えてないし、入ることにした理由も覚えてない。ポジションはずっと4-4-2のボランチ。一度だけ右サイドバックやったかもしれない。練習試合ユニは44番。
たまたま昨日いろいろな写真を見返してみた。1年生と言えば、部活動対抗リレー。部活動対抗リレーと言えばてっちゃんのトーマス。段ボール箱で車体作ってスケボーにうつぶせになって動力はてっちゃん。素晴らしかった。
冬に名入りのジャージを盗まれた。ないと困るのでin&outで同デザインのをしぶしぶ買う。いまだに主力ジャージなところがすごい。
ベルマーレJ2降格。部活の忙しさもあり平塚と疎遠になる。記憶にもあまりないシーズン。
あとはペルージャやらローマやら。
2000年(高2)
2年生の初仕事は部活動紹介。サッカー部の素晴らしさを紹介するために、秀逸な脚本・演出のもとドラゴンボール(ナメック星編)をやる。以下、役。
・クリリン(さすがピッコロと修行していただけあるな)
・悟飯(クリリンさんの技の多さにはびっくり満開)
・ベジータ(あと2個どこだ)
・ドドリア(ペタペタ)
・ドラゴンボール(最後のBGM)
・ポルンガ:2名(上のゴリラがなんかセリフ言ってたけどあんま覚えてない)
・フリーザ(ういー)
・気円斬(フラフープ)
・天津飯:7名(いい日カニ玉etc...)
・餃子(さよなら天さん)
あってるかな。天津飯多すぎw
後輩の入部もあり、Aチームで出れる気がしなくなる。一度Cチームで出るも、その試合で1ゴール挙げることができたことがこの年のプレーヤーとしての思い出か。練習試合ユニは24番。それまで誕生日やら小学校のユニやら"24"には縁があったから、少し変えて"25"にしようとしたらヨネとかぶった。仕方なく24に落ち着く。これが縁というものだな。
6月はひたすらEURO2000。全ての選手が高いコンディションで臨んだこの大会は、ここ数年でもっともエキサイティングな大会だと思う。いまだにこの大会のビデオは観返すことがある。ポルトガルとの出会い、開催国キラーイタリア、フランスの完成形。実況の「アンリが行く!」っていう短いフレーズからスピード感がにじみ出てて印象的だった。朝起きてビデオ持って学校行って誰かに貸すの繰り返しだった。決勝はしびれた。
オフはウイイレ4三昧。好きな選手だけでチーム作ったら都並、洪明甫あたりが入って対戦やるにはしんどかった。
ベルマーレに前園、松原が加入。でも成績あがらず。このころのことはほとんど覚えていない(知らないという方が適切かも)。部活やって帰って寝る生活だった。そのせいでJamiroquaiのライブさえもスルーした。激しく後悔。
Jリーグはテレビで流し見する程度。そんな中でたまたま観た広島の久保に衝撃を受ける。キレキレの西澤よりも久保にはまる。左サイドで2、3タッチの後ズドーンだもん。びびったびびった。
あとはローマやらアーセナルやら。
2001年(高3)
「ボレーシュートの鎌田くん」って大平に言われましたけど、いつボレーなんてしましたっけ?記憶にないんですけど。ゴールデンウィークで部活引退。いま思い返すと春休みのコンディションは悪くなかったかも。チームに必要な選手となるためにはもっと攻撃力を磨くべきだったと引退後に振り返る。最後にもらった白ユニは17番。
コンフェデのチケットがあっさり取れ、準決勝の日本vsオーストラリアを観戦。雨の中、中田がフリーキックねじ込んだ試合。しかもそっちのゴール裏だった。壁突き破ってボールが飛んできて、気がついたら立ち上がってた。実はオレがいたあたりは屋根付きで雨には全く困らなかった。決勝のチケットも取れないことはなかったけど、ビエラの一発にやられた試合だったら別に行かなくてもよかったという結果論。
年明けに気晴らしにロト6を買う。それまでのサッカー人生でつけた背番号(6、12、17、24、34、44)を数字として選択。見事4つ正解の4等約8,000円。入試前の景気付けとなる。
1996年(中1)
あまり迷わずサッカー部入部。3年間でのポジションは右ハーフとボランチを半々。
平塚で生ピクシーを観る。ストイコビッチ一人に負けたような試合だった(ちょっと記憶曖昧)。しかも、チケット取れずにアウェイ立ち見。
クラスメートの兄ちゃんが桐光学園で中村俊輔からパスもらってゴール決めてた。でもプロにはならなかった。詳細はしらね。数十年ぶりの神奈川県勢の決勝進出を果たす。ちなみに桐光学園の前は小田高(あるいはその前身校)のはずです。
この頃のブームはボキャ天。
1997年(中2)
W杯予選。無知だった故かはわからないけど、全く出場できない気がしなかった。ジョホールバルの試合は部屋で一人で観ていた希ガス。
ユニフォームがほとんど柴田の独断で青ベースのトリコロール系に決まる。
湘南の暴れん坊が暴れまくってた頃。それはそれは、攻撃的でアグレッシブで魅力的なサッカーでしたよ。
(中2の思い出はどっちかというと長野五輪かもしれないな。ここでは省略。)
1998年(中3)
キャプテン。実力のない代表者の困難さを知る。上に立つ者はその道で相応の実力を備えてないといけないと中学生ながらに痛感。雨中の引退試合。
フランス大会。日本以外にはフランスを応援。理由は中学のユニフォームがフランスっぽかったから。ひたすらFWの駒に悩まされるチームだった。選手ではプティが好きだった。でかくてカッコよくてちょっと危なっかしいオーラあって、オレにはないものいっぱい持ってた。それで半ば追っかけ気味にアーセナルを応援するようになる。しかもベルカンプもいたし。プティ(とオーフェルマルス)がバルセロナに移籍したとき本当に失望した。それ以来3シーズンほどバルセロナが嫌いで嫌いで仕方なかった。実はプティ以来、密かに長髪のボランチが好きだったりする。
中田移籍。開幕戦のペルージャに失望。いいときのジュビロのが強いんじゃないかと思った。そんな中で2ゴール。その後、ほぼ全てのペルージャ戦を観戦。
この頃から0時睡眠、2時起床のような荒技を身につける。
ウイイレ3を村井、堀越、泉田とよくやる。なぜか堀越はこのころからドイツのGKはケプケではなくカーンを使い続けていた。
フジタ撤退。低迷期の始まり。
この頃のマイブームは西川貴教のオールナイトニッポンのタモリネタとチャゲネタ。
だんだん記憶が鮮明で書くことが増えてきた。3年分しか書けなかった。
1986年頃
ばあちゃんにサッカーボールもらう。家の前の壁に向かってたぶん蹴ってたんだと思う。まだ水神公園も兎河原公園もなかったし。
1989年頃
ニューヨーク州ロチェスターで近くに住んでた金髪ねぇちゃんとボール蹴る。やけに上手かった希ガス。このころ実はドラゴンズファン。
1991年(小2)
久野サッカー少年団入団。選手としてのキャリアスタート。背番号34。ポジションは右ハーフor右ウィング(ともに4-3-3)。
1992年(小3)
久野サッカー、しらうめ杯準優勝。以後卒業までメインのユニは背番号24。右ハーフ定着。初の国立でサッカー観戦。ナビスコカップ、ヴェルディvsフリューゲルス。ラモス出場停止で菊原志郎10番。ナツカシス。
1993年(小4)
Jリーグ開幕。5月15日ヴェルディvsマリノスを観戦。前年も観戦した経緯からこの年ヴェルディファン。J1リーグ(今でいうJ2のこと)ベルマーレvsジュビロを平塚で観戦。このとき買ったチアホーンがどこかに家の眠ってる筈。
ドーハの悲劇は生放送で観たか観てないか定かでない。ULTRAS' NIPPONの出したシングルCDにより、このときの代表メンバー個々の応援歌は完璧に覚えている。
1994年(小5)
小田原西選抜に選出。後の高校でのチームメイトと運命的(本当か?)な出会い。
前期11位にも関わらず、なぜか気になってしまう黄緑のチームへの想いに気がつく。ここあたりからベルマーレファン。後期2位、天皇杯制覇の好フィニッシュ。
アメリカ大会はあまり印象に残っていない。バルデラマとゲオルゲ・ハジを気にするも特になにがあったわけでもなく。
1995年(小6)
小田原選抜(とは名ばかりの北と西のみの連合チーム)に選出。横浜スタジアムで途中出場2ゴールの大活躍(但し、消化試合)。プレーヤーとしてはここがピークか。
中田英寿加入。5月3日、7-0を目撃。そう、この頃は野口幸司こそがオレのヒーロー。野口の応援歌カッコヨス。ベルマーレがまさに湘南の暴れん坊となろうとするころ。ちなみにこの年のベルマーレ在籍者、中田、野口、反町、小島、岩本、名良橋、田坂などなど現在様々なところで活躍する人たちですよ。
続く。やり始めると楽しかった。完全に思いつき。2006年がオレのサッカー人生で一つの区切りになる(もしかしたら"なった"かも)気がするので振り返ってみようと思い。
ブラジル戦後、1限の発表に備えて研究室に向かういつもの通学路の中、なぜかこみ上げてきた現役引退への想像と喪失感。
それが現実のものとなった7月3日のあのメールでの発表。
なんか感情が言葉にならない。
ただ、好きな選手がスパイクを脱ぐのはこの上なく寂しい。