サカー履歴書 2nd
1996年(中1)
あまり迷わずサッカー部入部。3年間でのポジションは右ハーフとボランチを半々。
平塚で生ピクシーを観る。ストイコビッチ一人に負けたような試合だった(ちょっと記憶曖昧)。しかも、チケット取れずにアウェイ立ち見。
クラスメートの兄ちゃんが桐光学園で中村俊輔からパスもらってゴール決めてた。でもプロにはならなかった。詳細はしらね。数十年ぶりの神奈川県勢の決勝進出を果たす。ちなみに桐光学園の前は小田高(あるいはその前身校)のはずです。
この頃のブームはボキャ天。
1997年(中2)
W杯予選。無知だった故かはわからないけど、全く出場できない気がしなかった。ジョホールバルの試合は部屋で一人で観ていた希ガス。
ユニフォームがほとんど柴田の独断で青ベースのトリコロール系に決まる。
湘南の暴れん坊が暴れまくってた頃。それはそれは、攻撃的でアグレッシブで魅力的なサッカーでしたよ。
(中2の思い出はどっちかというと長野五輪かもしれないな。ここでは省略。)
1998年(中3)
キャプテン。実力のない代表者の困難さを知る。上に立つ者はその道で相応の実力を備えてないといけないと中学生ながらに痛感。雨中の引退試合。
フランス大会。日本以外にはフランスを応援。理由は中学のユニフォームがフランスっぽかったから。ひたすらFWの駒に悩まされるチームだった。選手ではプティが好きだった。でかくてカッコよくてちょっと危なっかしいオーラあって、オレにはないものいっぱい持ってた。それで半ば追っかけ気味にアーセナルを応援するようになる。しかもベルカンプもいたし。プティ(とオーフェルマルス)がバルセロナに移籍したとき本当に失望した。それ以来3シーズンほどバルセロナが嫌いで嫌いで仕方なかった。実はプティ以来、密かに長髪のボランチが好きだったりする。
中田移籍。開幕戦のペルージャに失望。いいときのジュビロのが強いんじゃないかと思った。そんな中で2ゴール。その後、ほぼ全てのペルージャ戦を観戦。
この頃から0時睡眠、2時起床のような荒技を身につける。
ウイイレ3を村井、堀越、泉田とよくやる。なぜか堀越はこのころからドイツのGKはケプケではなくカーンを使い続けていた。
フジタ撤退。低迷期の始まり。
この頃のマイブームは西川貴教のオールナイトニッポンのタモリネタとチャゲネタ。
だんだん記憶が鮮明で書くことが増えてきた。3年分しか書けなかった。
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